捃印補正
寛政12年 捃印補正 第三弾です。


これは全て木版で模刻された印影です。
機械的に模刻されたものではありませんので、実際の印影とは多少の誤差が生じております。
文献としては不十分かも知れませんが、考え方を変えれば、それが手彫りのいいところでもある訳です。
・・・
という理屈は字典の場合ちょっと無理があるかも知れませんね。
(でも実務印の場合はそれがいいところの一つと言っていいと思います)


個人用の実務印と多少考え方は異なります(私見です)が、このような篆書体の崩しは参考になります。
ただ、この捃印補正は庶民が日常的に使用していた印鑑を集めた資料ではありません。
篆書体の字典は石碑や古印(個人を用を除く)などからの出典が中心で、個人の実務印を出典とした字典は
まずありません。 (但し、個人印の印譜は販売されています)
個人のハンコは通常公開されるものではありませんので、考えてみれば当然の事なのですが、
篆書体の「崩し」が大いに参考になるので、実現できれば貴重な字典となるはずです。
(現在の崩しではなく昭和初期までの崩しを参考にすべきだと個人的には考えております)
************************
今回は捃印補正の写真のみですので、久しぶりに「載せるべきか迷ってしまうシリーズ」です。
「シリーズ」とかいう軽いノリは好きではありませんが、まあたまにはいいでしょう。

江戸時代の古文書だと思うのですが、何の書類だかわかりません。

達筆文字に黒印が押されています。
押印箇所は多いですが、黒印は1種類のみです。
後は朱印で1種類、合計2種類の印影です。

ブログ編集者


これは全て木版で模刻された印影です。
機械的に模刻されたものではありませんので、実際の印影とは多少の誤差が生じております。
文献としては不十分かも知れませんが、考え方を変えれば、それが手彫りのいいところでもある訳です。
・・・
という理屈は字典の場合ちょっと無理があるかも知れませんね。
(でも実務印の場合はそれがいいところの一つと言っていいと思います)


個人用の実務印と多少考え方は異なります(私見です)が、このような篆書体の崩しは参考になります。
ただ、この捃印補正は庶民が日常的に使用していた印鑑を集めた資料ではありません。
篆書体の字典は石碑や古印(個人を用を除く)などからの出典が中心で、個人の実務印を出典とした字典は
まずありません。 (但し、個人印の印譜は販売されています)
個人のハンコは通常公開されるものではありませんので、考えてみれば当然の事なのですが、
篆書体の「崩し」が大いに参考になるので、実現できれば貴重な字典となるはずです。
(現在の崩しではなく昭和初期までの崩しを参考にすべきだと個人的には考えております)
************************
今回は捃印補正の写真のみですので、久しぶりに「載せるべきか迷ってしまうシリーズ」です。
「シリーズ」とかいう軽いノリは好きではありませんが、まあたまにはいいでしょう。

江戸時代の古文書だと思うのですが、何の書類だかわかりません。

達筆文字に黒印が押されています。
押印箇所は多いですが、黒印は1種類のみです。
後は朱印で1種類、合計2種類の印影です。

ブログ編集者
明治印譜より
明治時代の印譜から

久しぶりの言葉ですが、「ハンコらしさ」を十分に味わえる事の出来る印影帳です。
書体も作風もバラエティに富んでいるので見ていて飽きません。
今日は向かって右のページの左側、下から二番目の印影をピックアップ。

裁判所の公印ですね。
柔らかさがが実にいい雰囲気の篆書体です。
ここで突然話は飛びますが、土曜日に錚々たる技術者の同業者(総勢5人)さんと話をする機会がありました。
このブログに関心をもっていただいているようで、好意的な意見をいただき有り難いという思いで一杯です。
とお礼を言おうと思ったら・・・
「コメント(説明)は書かなくてもいいよ」と笑いながら言われてしまいました。
これはもちろん私を侮辱したのではなく、笑い話として冗談が半分なのですが
「私はコメント読まなくてもわかるから 印影の写真をもっと載せてよ」という意味での辛口な冗談です。
辛口の冗談に負けてしまった訳ではありませんが、今回コメントは控え目としておきます。
ブログ編集者

久しぶりの言葉ですが、「ハンコらしさ」を十分に味わえる事の出来る印影帳です。
書体も作風もバラエティに富んでいるので見ていて飽きません。
今日は向かって右のページの左側、下から二番目の印影をピックアップ。

裁判所の公印ですね。
柔らかさがが実にいい雰囲気の篆書体です。
ここで突然話は飛びますが、土曜日に錚々たる技術者の同業者(総勢5人)さんと話をする機会がありました。
このブログに関心をもっていただいているようで、好意的な意見をいただき有り難いという思いで一杯です。
とお礼を言おうと思ったら・・・
「コメント(説明)は書かなくてもいいよ」と笑いながら言われてしまいました。
これはもちろん私を侮辱したのではなく、笑い話として冗談が半分なのですが
「私はコメント読まなくてもわかるから 印影の写真をもっと載せてよ」という意味での辛口な冗談です。
辛口の冗談に負けてしまった訳ではありませんが、今回コメントは控え目としておきます。
ブログ編集者
學校積金書上帳
タイトルの通り學校積金書上帳です。
民間から資金を募って学校を建てた際の出資金を記載した書類です。

虫喰いが生じているのが少々残念です。(右ページに汚れのように見えているのが虫喰いで生じた穴です)


明治九年の書類である事がわかります。
下に「上総國・・・」と書かれているところや反対側のページに写っている裏の部分から千葉県の書類である
事がわかります。
明治九年といえば・・・
インターネットで調べたところ、野口英世の生まれた年のようです。
古文書や古い印影を見る時は「その時代はどんな世の中だったのか」など考えながら見ると楽しみが倍増します。

ページを広げると私の大好きな古い印影で溢れております。
遠目で見ると私は左ページの左から三番目の左右の空間を十分に生かした作風が好きですね。
でも、印影の紹介は右ページから順番に。

右側は中輪細字(太枠細字)なのでしょうが、印影がはっきりしておらず残念です。
左は典型的な篆書体の八方崩しですね。
虫喰いで穴が空いてしまっているのが残念でなりません。
ブログ編集者
民間から資金を募って学校を建てた際の出資金を記載した書類です。

虫喰いが生じているのが少々残念です。(右ページに汚れのように見えているのが虫喰いで生じた穴です)


明治九年の書類である事がわかります。
下に「上総國・・・」と書かれているところや反対側のページに写っている裏の部分から千葉県の書類である
事がわかります。
明治九年といえば・・・
インターネットで調べたところ、野口英世の生まれた年のようです。
古文書や古い印影を見る時は「その時代はどんな世の中だったのか」など考えながら見ると楽しみが倍増します。

ページを広げると私の大好きな古い印影で溢れております。
遠目で見ると私は左ページの左から三番目の左右の空間を十分に生かした作風が好きですね。
でも、印影の紹介は右ページから順番に。

右側は中輪細字(太枠細字)なのでしょうが、印影がはっきりしておらず残念です。
左は典型的な篆書体の八方崩しですね。
虫喰いで穴が空いてしまっているのが残念でなりません。
ブログ編集者
戦前のご朱印
ブログ更新の主な目的は古い印影を公開し、一般の方に昔の印影を知っていただく事です。
7月は20の記事を更新できましたが、翌8月は時間の関係で何と1記事でした。
(先日も書きましたが)懇意にしていただいている同業者さんから、「言葉はいらないから印影を公開しなよ」
とアドバイス(?)をいただきましたので、なるべく印影を紹介し「百の言葉より一つの印影」という方針で。
少々気取った言葉になってしまいましたが、見ていただいている人あってのブログですので
なるべく多く印影を公開させていただくよう努力します。
前置きが長くなりましたが、戦前のご朱印です。

黒肉で押されている印影は楷書体で、朱印も比較的読みやすい篆書体ですので説明は不要ですね。
(といってもブログ記事の印文の判読までは基本的に行わない方針ですので普段も多く説明しておりませんが)


京都ですと東京在住の私はなかなか行く事はできませんが、インターネットで調べますと
現在のご朱印まで載っているので比較する事ができるので便利です。

これがゴム印ではなく木口で彫られていたのですから、昔の職人さんに脱帽です。
(今でももちろん彫刻可能ですが、普通の注文品で承っていたという労力に脱帽という意味です)


蓮の葉型の枠に太細の篆書体が絶妙ですね。


ブログ編集者
7月は20の記事を更新できましたが、翌8月は時間の関係で何と1記事でした。
(先日も書きましたが)懇意にしていただいている同業者さんから、「言葉はいらないから印影を公開しなよ」
とアドバイス(?)をいただきましたので、なるべく印影を紹介し「百の言葉より一つの印影」という方針で。
少々気取った言葉になってしまいましたが、見ていただいている人あってのブログですので
なるべく多く印影を公開させていただくよう努力します。
前置きが長くなりましたが、戦前のご朱印です。

黒肉で押されている印影は楷書体で、朱印も比較的読みやすい篆書体ですので説明は不要ですね。
(といってもブログ記事の印文の判読までは基本的に行わない方針ですので普段も多く説明しておりませんが)


京都ですと東京在住の私はなかなか行く事はできませんが、インターネットで調べますと
現在のご朱印まで載っているので比較する事ができるので便利です。

これがゴム印ではなく木口で彫られていたのですから、昔の職人さんに脱帽です。
(今でももちろん彫刻可能ですが、普通の注文品で承っていたという労力に脱帽という意味です)


蓮の葉型の枠に太細の篆書体が絶妙ですね。


ブログ編集者
印鑑証明書
明治40年の印鑑証明書です。

ブログで同様の説明をよくしておりますが、明治40年=1907年
2013年の今からですと106年前となります。
106歳で健在の方も居らっしゃるかとは思いますが、うまれたばかりの赤ちゃんに印鑑証明書は
考えられません。
では、昔は15歳位で大人並みだったと考え、15歳時の印鑑証明書と仮定しても現在は121歳となります。
印章資料、印影資料の公開であれば問題ないと考えておりますが、念の為実名はモザイクで隠しました。
(後ほど印影はモザイク無しで公開しておりますが、本人が特定できない印文です)

用紙の右側に自筆で書いて、左に証明印をいただくという形式だったようです。

今ではゴム印が使用されているような箇所も木口印章が使われているのがこの頃は一般的でした。


最後になりましたが、印鑑証明書の印鑑(印影)です。

柳葉篆で彫られた印影ですが、印文が本人名と若干異なっていますので、印文からご本人様が
特定されてしまう事はないと思っております。
仮に特定されてしまっても120歳位のお方ですので、きっと大目に見てお許しいただける事でしょう。
----------------------------------------------------
「篆額・扁額巡りの旅」
今回はとても旅とは言えない距離で、場所は東京都墨田区向島にある三囲神社です。
私のお店から徒歩でも行ける距離ですが、日中は仕事の為なかなか行く機会がとれなく行けず仕舞いでした。
仮称「篆額・扁額巡りの旅」は、旅行やドライブをしている中、何気ない神社仏閣にふと立ち寄ったところ
予想しなかった素晴らしい篆額や扁額を発見という偶然の出会い(出会いとは大袈裟ですが)を楽しみに
始めたものですが、今回は偶然ではなく前から見たいと思いを抱いていた石碑が目当てでやってまいりました。
「偶然の産物」を楽しみにしている私としてはちょっと反則ですが。

三圍神社(三囲神社)と書いて「みめぐりじんじゃ」と読むそうです。
境内へ入って早々に驚きました。
平均ではどの位というのはわかりませんが、他の神社に比べて石碑が多いです。
石碑マニアにはたまらない神社ですが、私はマニアを自称するにはまだまだ初心者というところです。



篆書は渋沢栄一の書のようです。
(正しいか否かはもう少し念入りに調べる必要ありますが、目的外の石碑でしたので精査しませんでした)


次に秦蒙将軍の碑ですが、私が知ったか振りの説明をして間違えてしまってはいけませんので説明は下の写真で。
(秦蒙将軍=蒙恬将軍との事です)

ただ、篆書は誰の書かは説明ありませんでした。

石碑には黎庶昌篆額とあります。
続いてこちら。


筆者は榎本武揚のようです。
写真からではわからないかも知れませんが、夕暮れ時に行ったので日没まで時間との戦いで
神社全体の写真撮影を忘れておりました。
本殿はうっかり撮り忘れておりましたが、本殿脇にいい光景が。(↓)

樋からの雨水受けです。
私の育った近所では「天水」と呼んでいましたが、正式な名前は天水でいいのでしょうか。
写真では良さが伝わらないかも知れませんが、緑の苔と神社の雰囲気がいい趣を醸し出していました。

再び篆額です。
縦長の小篆風で実に素晴らしいです。

170年近く前の石碑のようですが、残念ながら篆書の筆者はわかりませんでした。
さあ、そしてこれが今回の目的だった石碑です。

冒頭に書きました通り、予想を超える石碑の数に圧倒され、なかなか目的の篆額を探せませんでした。
あえて写真を最後にもってきたのではなく、順番に見ていく中でほとんど最後に見つけたようなタイミングでした。

目的の篆額はこれです。
正面からでは凹凸が分かりづらいので、あえて斜めから撮りました。
もしかすると「意外」と思われる方も多いかも知れません。
誤解を恐れずに言いますと、筆圧がないので篆書体を見慣れていない人はパソコン用の篆書体フォント
のように見えてしまうかも知れません。
でもフォントとは違う絶妙な崩しが何とも言えません。
著名な書家の作品でも「この字とあの字は好きだけど、これはちょっとイメージが違うな」というのは
正直な感想としてたまにあります。(もちろん見る側の好みの問題ですが)
しかし、この篆額は八文字のみとはいえ、全ての文字がお互い最高のバランスで書かれている素晴らしい
篆書で私は大好きです。
最近このような筆圧を出さない篆書体を書く人は少ないように思えます。
でも私は印章の中輪(太枠)細篆書体の美にも繋がる素晴らしい作風だと思います。
書道誌でこの碑の拓本を見てからずっと実物を見てみたいと思っていました。
拓本は墨でとっている為、陰陽がはっきりしていて実際の石碑より綺麗に見えているだろうというのは
織り込み済みです。
この石碑を見つけた時は既に日が陰っており、なかなかカメラのピントが合わせられない位でした。
ですので、一文字づつ撮った写真は(シャッタースピードの関係もあり)ピンボケ気味で残念。
かろうじて斜めから撮ったこの2枚を。

(フラッシュを使用したり真正面から撮りますと碑文の凹凸がうまく撮れないので、あえて斜めから撮っております)

篆書は関潢南

ブログ編集者

ブログで同様の説明をよくしておりますが、明治40年=1907年
2013年の今からですと106年前となります。
106歳で健在の方も居らっしゃるかとは思いますが、うまれたばかりの赤ちゃんに印鑑証明書は
考えられません。
では、昔は15歳位で大人並みだったと考え、15歳時の印鑑証明書と仮定しても現在は121歳となります。
印章資料、印影資料の公開であれば問題ないと考えておりますが、念の為実名はモザイクで隠しました。
(後ほど印影はモザイク無しで公開しておりますが、本人が特定できない印文です)

用紙の右側に自筆で書いて、左に証明印をいただくという形式だったようです。

今ではゴム印が使用されているような箇所も木口印章が使われているのがこの頃は一般的でした。


最後になりましたが、印鑑証明書の印鑑(印影)です。

柳葉篆で彫られた印影ですが、印文が本人名と若干異なっていますので、印文からご本人様が
特定されてしまう事はないと思っております。
仮に特定されてしまっても120歳位のお方ですので、きっと大目に見てお許しいただける事でしょう。
----------------------------------------------------
「篆額・扁額巡りの旅」
今回はとても旅とは言えない距離で、場所は東京都墨田区向島にある三囲神社です。
私のお店から徒歩でも行ける距離ですが、日中は仕事の為なかなか行く機会がとれなく行けず仕舞いでした。
仮称「篆額・扁額巡りの旅」は、旅行やドライブをしている中、何気ない神社仏閣にふと立ち寄ったところ
予想しなかった素晴らしい篆額や扁額を発見という偶然の出会い(出会いとは大袈裟ですが)を楽しみに
始めたものですが、今回は偶然ではなく前から見たいと思いを抱いていた石碑が目当てでやってまいりました。
「偶然の産物」を楽しみにしている私としてはちょっと反則ですが。

三圍神社(三囲神社)と書いて「みめぐりじんじゃ」と読むそうです。
境内へ入って早々に驚きました。
平均ではどの位というのはわかりませんが、他の神社に比べて石碑が多いです。
石碑マニアにはたまらない神社ですが、私はマニアを自称するにはまだまだ初心者というところです。



篆書は渋沢栄一の書のようです。
(正しいか否かはもう少し念入りに調べる必要ありますが、目的外の石碑でしたので精査しませんでした)


次に秦蒙将軍の碑ですが、私が知ったか振りの説明をして間違えてしまってはいけませんので説明は下の写真で。
(秦蒙将軍=蒙恬将軍との事です)

ただ、篆書は誰の書かは説明ありませんでした。

石碑には黎庶昌篆額とあります。
続いてこちら。


筆者は榎本武揚のようです。
写真からではわからないかも知れませんが、夕暮れ時に行ったので日没まで時間との戦いで
神社全体の写真撮影を忘れておりました。
本殿はうっかり撮り忘れておりましたが、本殿脇にいい光景が。(↓)

樋からの雨水受けです。
私の育った近所では「天水」と呼んでいましたが、正式な名前は天水でいいのでしょうか。
写真では良さが伝わらないかも知れませんが、緑の苔と神社の雰囲気がいい趣を醸し出していました。

再び篆額です。
縦長の小篆風で実に素晴らしいです。

170年近く前の石碑のようですが、残念ながら篆書の筆者はわかりませんでした。
さあ、そしてこれが今回の目的だった石碑です。

冒頭に書きました通り、予想を超える石碑の数に圧倒され、なかなか目的の篆額を探せませんでした。
あえて写真を最後にもってきたのではなく、順番に見ていく中でほとんど最後に見つけたようなタイミングでした。

目的の篆額はこれです。
正面からでは凹凸が分かりづらいので、あえて斜めから撮りました。
もしかすると「意外」と思われる方も多いかも知れません。
誤解を恐れずに言いますと、筆圧がないので篆書体を見慣れていない人はパソコン用の篆書体フォント
のように見えてしまうかも知れません。
でもフォントとは違う絶妙な崩しが何とも言えません。
著名な書家の作品でも「この字とあの字は好きだけど、これはちょっとイメージが違うな」というのは
正直な感想としてたまにあります。(もちろん見る側の好みの問題ですが)
しかし、この篆額は八文字のみとはいえ、全ての文字がお互い最高のバランスで書かれている素晴らしい
篆書で私は大好きです。
最近このような筆圧を出さない篆書体を書く人は少ないように思えます。
でも私は印章の中輪(太枠)細篆書体の美にも繋がる素晴らしい作風だと思います。
書道誌でこの碑の拓本を見てからずっと実物を見てみたいと思っていました。
拓本は墨でとっている為、陰陽がはっきりしていて実際の石碑より綺麗に見えているだろうというのは
織り込み済みです。
この石碑を見つけた時は既に日が陰っており、なかなかカメラのピントが合わせられない位でした。
ですので、一文字づつ撮った写真は(シャッタースピードの関係もあり)ピンボケ気味で残念。
かろうじて斜めから撮ったこの2枚を。

(フラッシュを使用したり真正面から撮りますと碑文の凹凸がうまく撮れないので、あえて斜めから撮っております)

篆書は関潢南

ブログ編集者
御条目五人組御仕置帳
御条目五人組御仕置帳の続きです。
1797年(寛政9年)ですので今から216年前の資料です。
昔の官印や落款印の印影資料は比較的簡単に見る事ができますが、庶民の印影はなかなか見る事ができないので
興味が無い方にとっては単なる汚い資料に見えてしまうと思いますが、ブログでの紹介は続けていきたいと思います。


余白の部分にカビ跡が見えております。
残念でなりませんが、216年前の資料ですので「この位で済んで良かった」と前向きに考えるしかありません。

向かって右側のページです。

筆書きしてある名前と印文が異なるようですので篆書体は判読が難しいですが、
左右を目一杯空けた字配りに縦線と横線のみで形成された印篆で私が大好きな作風です。
黒肉を使わず墨で捺印されたものでしょうか。
捺印状況が良ければ大変美しい印影になったと思います。

中央の印影はこれも印文が異なっていますね。(どう見ても市三郎さんと彫られているようには見えません↑)
印文より気になるのは二重枠にも三重枠にも見える線です。
私は松の葉や大根を型どったこのような印影を見た事がありますが、そのような作風なのでしょうか。
200年以上前の印判師又は発注者さんがどのような意図でこのような印鑑を作ったのか知りたいところです。

変わってこちらは向かって左のページです。
こちらも個性的な印影が並んでおります。

中央は唐草が彫られております。
以前にもどこかで紹介させていただいたと思いますが、随分とシンプルで丸みがありませんが、これも唐草模様で
こんな角ばった作風も江戸時代には存在したのです。

中央の小判型も唐草が施されていますね。
その左は朱文か白文かわからない彫刻です。
江戸時代の庶民は自分で印章を彫っていた人も居る(もちろん現代でも居ますが)ので
そんな自作の印章の気がしますが実際はどうだったのでしょうか。

左端の印影も興味をそそる作風ですね。
同一ではありませんが、似た作風は当店の資料で見た事があります。
どこかに埋もれてしまったので、その印影の紹介は今後の宿題という事で。
印影の数こそ多いものの「五人組帳は黒印ばかり。 いつもこんな感じでつまらない」と思われている方へ
今回は別の資料も用意しました。

実務印の業界誌「印章世界」です。

年号が見えなければ一見何が何だかわからなそうですが右端に「和昭」と書いてありますので
昭和15年という事がわかります。
戦時中ですね。
今回は表紙に使われた印影を紹介。 (印刷印影です)

各地大家印譜とありますね。
「名印に印相体無し」
「印相体に名印無し」
これは言うまでもない美術界の常識です。

一見特別に感じない角印に見えてしまいそうですが、親子二重枠です。





説明不要の名印、最後は柳葉篆でした。
ブログ編集者
1797年(寛政9年)ですので今から216年前の資料です。
昔の官印や落款印の印影資料は比較的簡単に見る事ができますが、庶民の印影はなかなか見る事ができないので
興味が無い方にとっては単なる汚い資料に見えてしまうと思いますが、ブログでの紹介は続けていきたいと思います。


余白の部分にカビ跡が見えております。
残念でなりませんが、216年前の資料ですので「この位で済んで良かった」と前向きに考えるしかありません。

向かって右側のページです。

筆書きしてある名前と印文が異なるようですので篆書体は判読が難しいですが、
左右を目一杯空けた字配りに縦線と横線のみで形成された印篆で私が大好きな作風です。
黒肉を使わず墨で捺印されたものでしょうか。
捺印状況が良ければ大変美しい印影になったと思います。

中央の印影はこれも印文が異なっていますね。(どう見ても市三郎さんと彫られているようには見えません↑)
印文より気になるのは二重枠にも三重枠にも見える線です。
私は松の葉や大根を型どったこのような印影を見た事がありますが、そのような作風なのでしょうか。
200年以上前の印判師又は発注者さんがどのような意図でこのような印鑑を作ったのか知りたいところです。

変わってこちらは向かって左のページです。
こちらも個性的な印影が並んでおります。

中央は唐草が彫られております。
以前にもどこかで紹介させていただいたと思いますが、随分とシンプルで丸みがありませんが、これも唐草模様で
こんな角ばった作風も江戸時代には存在したのです。

中央の小判型も唐草が施されていますね。
その左は朱文か白文かわからない彫刻です。
江戸時代の庶民は自分で印章を彫っていた人も居る(もちろん現代でも居ますが)ので
そんな自作の印章の気がしますが実際はどうだったのでしょうか。

左端の印影も興味をそそる作風ですね。
同一ではありませんが、似た作風は当店の資料で見た事があります。
どこかに埋もれてしまったので、その印影の紹介は今後の宿題という事で。
印影の数こそ多いものの「五人組帳は黒印ばかり。 いつもこんな感じでつまらない」と思われている方へ
今回は別の資料も用意しました。

実務印の業界誌「印章世界」です。

年号が見えなければ一見何が何だかわからなそうですが右端に「和昭」と書いてありますので
昭和15年という事がわかります。
戦時中ですね。
今回は表紙に使われた印影を紹介。 (印刷印影です)

各地大家印譜とありますね。
「名印に印相体無し」
「印相体に名印無し」
これは言うまでもない美術界の常識です。

一見特別に感じない角印に見えてしまいそうですが、親子二重枠です。





説明不要の名印、最後は柳葉篆でした。
ブログ編集者
明治時代の蔵書印
さて、東京印章協同組合の「蔵書印まつり」もいよいよ近付いて参りました。

そこでちょっとわざとらしいタイミングですが、今回は明治時代の蔵書印を紹介させていただきます。

九畳篆とまでは言えないかも知れませんが、これは畳篆といっていいでしょう。
印譜の同じページに載っていたのでこちらの角印も。

角印ばかりではつまらないかも知れませんので、別の明治印譜から個人の丸印を。


龍紋と親子二重枠。
やはり古い印影はいい物が多いです。
ブログ編集者

そこでちょっとわざとらしいタイミングですが、今回は明治時代の蔵書印を紹介させていただきます。

九畳篆とまでは言えないかも知れませんが、これは畳篆といっていいでしょう。
印譜の同じページに載っていたのでこちらの角印も。

角印ばかりではつまらないかも知れませんので、別の明治印譜から個人の丸印を。


龍紋と親子二重枠。
やはり古い印影はいい物が多いです。
ブログ編集者
明治ヂ代の印影記録 (印鑑簿)
まずはこちらをご覧下さい。

「明治四十年 印鑑簿」
ハンコ屋の私はこんな表紙を見るだけで心が躍ってしまいます。
例によって年代ですが、明治四十年=1907年=106年前。
100年以上前のものならば、フルネームと印影の公開は大丈夫としましょう。
この印鑑簿にはご住所は記載されていない事もあり、印影とフルネームを順番に公開させていただきます。
目的はもちろん「古き良き時代の印影」を一般の方に知っていただく事です。

「フルネーム印影の公開は大丈夫」と言いつつ左の二名にはモザイク加工をしてしまいました。
私はよく「一日一印影の紹介を目標に」と書いておりますが、実際は複数の印影を記事に載せ
多いときは五人組帳などで一つの記事に10以上の印影をブログで紹介させていただいております。
この記事で283記事となります。
恐らく印影の数では1000を超えているのではないでしょうか。
今後もより多くの印影を紹介させていただきたいところですが、この印鑑簿からは一印影づつの紹介と
させていただきます。

と言いつつ今回は二つ印影を載せますが、この印影は理事さんの印影ですので数に入れず、
個人の印影を一印影づつとします。
隷書体の角印です。
100年以上前の帳簿ですが、保存状態が大変良く素晴らしい印鑑簿なのですが・・・
「一印影づつ」という勿体ぶってしまった事には理由があります。
(勿体ぶって申し訳ございませんが、理由はいずれ書かせていただきます。)

「田」が非常に個性的な形になっております。
でも創作ではありません。
篆書体にはきちんとした決まりがあります。
「久」という篆書体はこの時代ならではの折り畳みの多い崩しで、私の大好きな作風です。
親子二重枠に十分空間をとった細篆書体。
鮮明な印影が良さを一層引き立てております。
(個人印は)一印影のみの紹介ですが、100年以上前の素晴らしい手彫り印鑑印影をご覧下さいませ。
印文はこちら(中央です)

ブログ編集者

「明治四十年 印鑑簿」
ハンコ屋の私はこんな表紙を見るだけで心が躍ってしまいます。
例によって年代ですが、明治四十年=1907年=106年前。
100年以上前のものならば、フルネームと印影の公開は大丈夫としましょう。
この印鑑簿にはご住所は記載されていない事もあり、印影とフルネームを順番に公開させていただきます。
目的はもちろん「古き良き時代の印影」を一般の方に知っていただく事です。

「フルネーム印影の公開は大丈夫」と言いつつ左の二名にはモザイク加工をしてしまいました。
私はよく「一日一印影の紹介を目標に」と書いておりますが、実際は複数の印影を記事に載せ
多いときは五人組帳などで一つの記事に10以上の印影をブログで紹介させていただいております。
この記事で283記事となります。
恐らく印影の数では1000を超えているのではないでしょうか。
今後もより多くの印影を紹介させていただきたいところですが、この印鑑簿からは一印影づつの紹介と
させていただきます。

と言いつつ今回は二つ印影を載せますが、この印影は理事さんの印影ですので数に入れず、
個人の印影を一印影づつとします。
隷書体の角印です。
100年以上前の帳簿ですが、保存状態が大変良く素晴らしい印鑑簿なのですが・・・
「一印影づつ」という勿体ぶってしまった事には理由があります。
(勿体ぶって申し訳ございませんが、理由はいずれ書かせていただきます。)

「田」が非常に個性的な形になっております。
でも創作ではありません。
篆書体にはきちんとした決まりがあります。
「久」という篆書体はこの時代ならではの折り畳みの多い崩しで、私の大好きな作風です。
親子二重枠に十分空間をとった細篆書体。
鮮明な印影が良さを一層引き立てております。
(個人印は)一印影のみの紹介ですが、100年以上前の素晴らしい手彫り印鑑印影をご覧下さいませ。
印文はこちら(中央です)

ブログ編集者