印相体、開運印鑑の嘘・デタラメ

① 前半は開運印鑑とその書体である印相体についてを資料とともに説明。
② 中盤は追伸説明(写真無し)
③ 後半は開運印鑑はハンコ屋が儲ける為の道具に過ぎない事を証明する業界紙からの抜粋資料です。
開運印鑑を知るには印相体を知る必要があります。
印相体(吉相体など別名も同じものです)はほとんどの印章店で書体の一つとして扱われておりますが、
これは唯一開運印鑑で使われる書体で、他の書体とは成り立ちが全く違う事はご存じでしょうか。
まず先に印相体についての事実を書きます。
箇条書きで説明してある内容はとても信じられないかも知れませんが、信じられない場合は
なおさら良くお読み下さいませ。
●印相体は古来からの文字ではなく、昭和40年代初頭に創作された書体である。
●篆書体をはじめ、漢字の書体は美しさや利便性を考え発達したが、印相体だけは商業目的として創作された。
●元々はんこに「相」という観点はなく、印相という言葉は印章(印鑑)とは関係無い仏教用語である。
●開運印鑑の原点とネット上でよく書かれている江戸時代の本「印判秘決集」はハンコとは全く関係ない本である。
●印章基本6書体は学術的にもちろん存在する書体だが、印相体だけは学術的に存在しない。(商材の為)
(印章基本6書体=篆書体、隷書体、楷書体、行書体、草書体、古印体)
●印相体で彫られた印章(印鑑)は日展その他の美術展では絶対に入賞しない。 (芸術的価値はゼロという意味)
●吉相体は印相体の名前を変えただけ。 (どちらも商材に過ぎない)
●印相体が世に出始めた昭和40年代は、印章業界も撲滅に力を挙げていた。 (今は・・・?)
●開運印鑑でいいとされている話や、凶とされている話は、古来からの慣習ではなく、販売業者が創作したもの。
その証拠に、開運印鑑や凶印などが書かれた古文書は存在しない。 (開運印鑑が流行した後の営利目的の書籍はあります)
●開運印鑑の「印○学」という易学みたいな名称は、古来からの言い伝えではなく商標登録された商材である。
(事情により上の「」内の一部を伏せ字にさせていただきました)
(開運印鑑を知るにはこちら印鑑 開運やQ&Aも是非ご覧下さい)
膨大なお店で印相体が扱われている現状で、いくら私が声を大にして「デタラメです」と言っても信じられない事は
無理もありません。
実情を知らない方からみれば「へそ曲がりな奴」と思われてしまっているかも知れません。
しかし、「デタラメ」と私が書いている話が(今は仮にでも)本当の事だとしたらどう思いますか?
(デタラメというのは、文字の正誤ではなく由来、成り立ちがデタラメという意味です。)
私を「信じる・信じない」は後回しにして結構ですので、まずは資料を伴う私の説明をお読みいただけますでしょうか。
私と開運印鑑販売店さん(=通称 印相屋さん)のどちらが正しいのか。
ここで是非見ていただきたい資料があります。

昭和50年に印章店向けに出版された印影の見本帳です。
著者は業界では誰もが知っている井上先生です。
(何か問題が生じてはいけませんので検索ヒットしないようテキストでのフルネームは略しました)

上の画像は先生の経歴について書かれている箇所をスキャンさせていただいたものですが、ご覧いただければ
わかる通り、井上様は印章協会の技術競技会の審査員を務めたほか、東京印章協同組合技術講習会の講師や
印章彫刻技能検定の検定委員、印章誌の審査員などを務めた先生が作成した、印章業界向けの素晴らしい見本帳です。

この本の最後に井上様による説明があります。
是非読んで見て下さい。 (赤枠のみ私が画像加工しました)

赤枠内の言葉が全てを語っております。
冒頭に「最近」と書かれていますが、これはもちろん出版された昭和50年当時の事です。
どうです?
印相体は、近年創られたに過ぎない変なものなのです。
私の言葉であれば信じられなくても、上の経歴にある井上様の言葉でしたらどう思いますか?
最初の数行より下は印章業に従事する人達へのメッセージです。
お客様用の見本でなく、印章業界に従事する人向けの見本帳だからこそのメッセージです。
この資料だけでも十分なはずですが、他にも資料を用意しました。

これは左下に書いてある通り、印章協同組合の書体見本です。
私が独自に作成した見本ではなく、印章協同組合が作成したものという点を重視してお読み下さい。
当店は組合加盟店ですので、販促用の見本をインターネットに載せる事は何も問題ないはずですが
転用防止の為、若干画像を加工させていただきました事をご了承下さい。
前述しましたが、印鑑を販売している実店舗、インターネット上の店舗問わず、ほとんどのお店が印相体を扱っております。
しかし、印章業界の中央組織である組合発行の書体見本には印相体が載っておりません。
変だと思いませんか?
それほど印相体が浸透しているのは、私から見ても紛れもない事実です。
だったら業界組織である印章協同組合の見本には、参考として一つの印影位は載せるべきだと思いませんか?
それが一つの印影も無いのですよ。
印相体が浸透しているのと比べると明らかに不自然です。
それを念頭に下の画像をご覧下さい。

↑これは印章組合の青年部が作った見本です。
「組合の見本に印相体は一つもない」と上に書いてしまいましたが、最近他の見本に印相体が
載っている事に気付きました。
でも、印影の下にある説明を見て下さい。(赤のアンダーラインは私が引きました)
広く普及している書体をわざわざ「当組合では推奨しておりません」などと書く意味を考えてみて下さい。
日本全国北から南まで広く普及してしまっている書体にわざわざカドが立つような説明をする必要が
あるのでしょうか。
答えは 「あえて説明する必要があるのです」
もっとストレートで私の言葉に直しますと「この書体は選ばないで下さい」となります。
印相体を「当組合では推奨しておりません」と書いている意味も考えて下さい
当店≠つまり私一人が言っているのではありません。
印章業界の公的組織が 「印相体は選んではいけない書体ですよ」 と言ってるのです。
尚、印章業界(篆刻業界を除く実務的に使われる印章の業界)の非営利公的組織は
公益社団法人・全日本印章業協会と、各都道府県の印章組合のみです。 (問屋、材料業は除きます)
既に印相体・開運印鑑のデタラメに気付いている方には実に回りくどい文章になってしまっている気が
しますが、今回の記事は印相体や開運印鑑の嘘について半信半疑の方や、ひょんな検索からこのブログに
辿り着いた方に是非読んでいただきたい内容にしておりますので、繰り返し似た説明になってしまって
いる事はご理解をお願いします。
◎印相体はデタラメである事を説明していきますので、だんだんと辛口の表現になりますがご了承下さい◎
更に続けます。
こちらは印章PRポスターです。

昭和40年代のポスターですが、当店もお世話になった同業者さんが作った販売促進用のポスターです。
いかにも昭和40年代という雰囲気が漂っていますよね。
私がこのブログ用に創作したものではなく、昭和40年代に印章店向けに販売されたポスターという事を念頭に考えて見て下さい。
注目していただきたいポスターは上段の右二つです。
下は拡大した画像です。(2つの赤い枠のみ私が加工しました)

昭和47年5月・3月と書いてありますね。
ポスター本体も重要ですが、見ていただきたいのは赤枠の中の言葉です。
おそらく製作者さんの感想でしょう。
左のポスター(昭和47年5月)に
「古来の書体を凶印と言われたのが頭に来た」
「札の文字が正しいんだ言う外になかった」
札の文字とはお札に押されている印影の事です。
ここでもう一度上で紹介した井上先生の説明文の画像を貼ります。

どうでしょうか。
正しい事はみな同じなのです。
「ぐらついた業界は客の好きな字体でと印相印風になった」
お客様が喜べばそれでいいんだ なんて事はありません。
印相体を選ぶお客様は例外なく篆書体の正しい知識がない方々です。
知識が無いお客様がいけないのではありません。
嘘・デタラメなハンコを売るお店側がいけないのです。
お客様を「裸の王様」にして喜ばせて良い訳がありません。
きちんとした知識をお客様へ説明し、正しい方向へ導くのがお店の本来の姿であるはずです。
「…そのスキに印相印は伸びる一方となった」
昭和40年代に開運印鑑が伸びて今に至ったという未来を予想していたかのような言葉ですね。
でも、ポスターが3,000枚も売れたという事は、そんな志をもったお店がまだその当時は3,000件
もあったという事です。
長くなりますが、次は右の昭和47年3月のポスターより
「印相印の宣伝がしきりに目につく迷信と異様な書体」
上の井上先生の説明でも似た表現がありましたね。
「業界は唖然として-多くの批判、攻撃はあったが表示されたものはこのポスター一枚である複雑な意味…」
1,600枚=正しい書体の印鑑を販売する店が1,600件
昭和47年当時には、印相体に警報を鳴らすきちんとしたハンコ屋さんがそれだけあったのです。
時代は昭和から平成になり、平成24年の現在、印章業界は惨憺たる状況に陥っております。
業界に警報を鳴らすポスターが数千枚売れた時代は終わりを告げ、普通のハンコ屋だったお店が
印相体を「人気の書体」「いい書体」などと言って販売し、開運印鑑専門のペテン師がお客様を騙し
続けているとんでもない時代になってしまいました。
業界に警報を鳴らすポスターを買った数千件のお店は「ミイラ取りがミイラになった」
という風に様変わりし多くのペテン師を生み出す結果となりました。
秘伝?
実力派?
老舗?
巨匠?
○○先生が彫る開運印鑑?
大勢のペテン師が手ぐすね引いてカモを探しているのが現状です。
上の言葉に「嘘」「デタラメ」や「インチキ」などの単語を当てはめて文を作れば真実になります。
「嘘の秘伝」 「デタラメの実力派」 「インチキの巨匠」
あまりにピッタリですので自分で書いて思わず笑ってしまいます。
(このポスターについては後日改めて記事にしましたので、こちらの記事 もご覧下さい)
文字の創生と共に発達、中国から日本に伝来し、藩札文化を経て明治時代に頂点を期した素晴らしい
日本独特の印章文化が、開運印鑑を販売する愚に落ちたハンコ屋によって破壊されてきております。
言い過ぎですか?
いえいえ
どこが言い過ぎなのでしょうか。
検索エンジンで「印鑑」とか「開運印鑑」と検索してみて下さい。
膨大な数のペテン師がインターネット上でインチキ商売をしているのが瞬時にわかります。
今の日本の印章業界は愚に落ちた惨憺たる状況です。
故意と過失は違います。
現在の状況は過失ではなく、紛れもなくハンコ屋が故意にしてきた事です。
今からではもう無理かもしれませんが、どこかに一人くらい本当の事を世に知らせる人が必要なのでは
ないかと思います。
金儲けの為にお客様を「裸の王様」にして喜んでいるペテン師を断罪するには、私の言葉じゃ甘い位です。
ホント
私の言葉くらいじゃ甘いですよ。
もし気が向いたらこちらの本を見てみて下さい。

株式会社東京堂出版さんの「篆刻 3 」です。
この本に印相体と称する異様な文字をバッサリ断罪している記事が載っています。
これに比べたら私の言葉などまだまだ甘いですね。

東京堂さんとは交流がありませんので文章は掲載できませんが、印相体をメッタ斬りです。
興味のある方は古本店さんなどを通して探してみてはいかがでしょうか。
昭和58年の出版です。
尚、「印相体は別名 八方篆書体と呼ばれ・・・」などとよく書かれています。
<ここから数行は誤解の無いようにお願いします>
篆書体の作風を変える事(字典の形の応用)を「崩す」と表現します。
江戸時代のから、印文を読めなくする目的で篆書体を崩した「八方崩し」という作風がよく用いられました。
印相体はこの作風を真似た事は間違いありません。
しかし、篆書体の八方崩しと印相体は明らかに異なります。
①八方崩しは印文の判読がわざと困難なように崩されているのに対し、印相体は判読が出来る様に創られている。
②八方崩しは、「四方八方に崩す」という意味で崩されているのみに対し、印相体は縁起などの謂れが付属する。
③八方崩しは江戸時代から存在するが、印相体は昭和まで存在しなかった。
この二点が大きな違いで、そして何より印相体は昭和30年代まで存在しなかった書体という事が最大の違いです。
【説明】
①について・・・篆書体を見慣れていない方は判読そのものを難しいかも知れませんが、本物の八方崩しと同じ
程に崩されている印相体は無い(印相体が出始めの頃はいい加減な崩しで判読出来ないものもありました)
②について・・・今でこそ印相体は書体選択肢の一つの様になりましたが、元々は開運印鑑専門の書体でした。
そして、それには必ず 「太枠ではいけない」 「二重枠ではいけない」 「四角はダメ」 「小判型はダメ」 などという事が
付け加えられていました。
もちろんそれらは、言い伝えではなくハンコ屋がハンコを売る為に創作した事で、本物の八方篆書体はその様な
いい加減な謂れなど、一切ありませんでした。
私が書いている事は、ネット上で多くのお店が書いている事の正反対です。
私とネット大多数、どちらを信じますか?
それは賢明な人であれば、このページの写真資料をご覧いただければおわかりいただけるかと思います。
「う~ん、でもな~?」 と半信半疑ですか?
では、この下に説明を追伸で書かせていただいておりますが、追伸記事の後半には新たな写真資料がありますよ。
そちらも併せてご覧下さい。
ブログ編集者
------------------- 追伸 ------------------------
★ 追伸前半は文字ばかりでつまらないかも知れませんが、追伸の後半は別の資料写真があります。
印章業界紙からのピックアップですが、印相体でハンコを作ろうと検討している人が見ると驚いてしまうと思いますよ。
文字ばかりでつまらないと思う人はへスクロールして写真を探してみて下さい。
印相体(及び開運印鑑)を業界が採り上げた部分がありますので、時間がない方は、下の写真まで
飛ばしてお読み下さい。
これから印鑑を作ろうと考えている消費者様が読んだら、驚きで圧倒されると思います。
尚、開運印鑑が売り出された当初は、開運印鑑という呼び名ではなく、印相印という呼び名でした。
ここから下は継ぎ足し更新で書いておりますので、説明が重複する部分が多々あります事をご容赦下さい。
------------------- 追伸 ------------------------
追伸が続きます。
ここで印章業界の業界紙を紹介させていただきます。

記事の中の写真にこのページに載せているポスターが採りあげられています。

赤線部分をお読み下さい。
昭和30年代に創作された印相体が昭和40年代に広まった理由の一つです。
開運印鑑販売業者が「上下のしるしは良くない」などの古くからの伝統を否定し、新しく創った印相体を勧め
印章の詳しい知識の無い消費者様の考え方を変え(ある意味「騙す」訳です)、感化されたお客様からの
要望で、お店側も印相体を真似して採り入れる。
印章店はいくら伝統、慣習を守ってもハンコが売れなければ暮らしていけません。
伝統や慣習を守る事よりも、手っとり早くお金儲け出来る方を選んだお店により印相体は広がりました。
その証拠がこれ(↓)です。 (赤のアンダーライン部分をお読み下さい)

これはあくまでも理由の一つで、お客様が悪い訳ではなく、正しい知識を消費者様に伝えるべき業界側が
てっとり早い金儲けに走った結果、「上下のしるしは無い方がいい」 とか印相体を流行させる事になったのです。
このポスターにある絵をご覧下さい。
4つある印章に全て上下のしるしが付いていますよね。
また、開運印鑑では「凶印」など言われている印鑑の蓋(サヤと言います)もその一つには付いております。
これは追伸記事ですので、本文と重複しますが、ポスターの中で指を指している印影に注目して下さい。
昭和47年のポスターですので古いお札ですが、1万円札に押されている(印刷)日本銀行「総裁之印」です。
これは印篆(いんてん)という文字通り印章用の篆書体で、上下左右の空間を程良くとった、実印の最高の見本
とされています。
「昔の資料にはいいハンコを知る上でのヒントが沢山あります」
この考をもとに、今後も正しい印章を知ってもらう記事を更新し続けます。
--------------平成28年5月8日追伸----------------

アンダーライン部分以外も併せてお読みいただければと思います。
上の資料及びう今後も「印相屋」という言葉が出てきます。
これは初期の開運印鑑販売店の事です。
印相体は(以前は)開運印鑑専門の書体であり、開運印鑑販売店は印相屋さんと呼ばれていました。
(開運印鑑と呼ばれる様になったのは、最近の事です)
アンダーラインの「印相の第二第三」というのが今でいう吉相体や新篆書体の事になると思います。
このページ内の資料とこの記事の文章を併せて考えますと、開運印鑑はハンコ屋が得をする
お金儲けの道具である事がよくわかると思います。
-------------------追伸-----------------------
業界誌の続きです。

「印章業界の事件簿」 「印相印問題」 とありますね。
通常の篆書体が事件や問題になるはずありません。
霊感商法でも印鑑(印章)が商材にされる事が多いですが、誤解しないでいただきたい事は、これは犯罪である
霊感商法を採りあげた記事ではありません。
誌面のメインタイトルをよくご覧下さい。
これはあくまでも印章業界の事です。
内容は霊感商法の事ではなく 「どこの業者が開運印鑑でどの位金儲けをしたか」 を 「事件」 と銘打った記事です。
伝統的な印章でしたら、いくら売れても 「事件」 と表現される事は考えらませんよね。
販売促進で業界が盛り上がれば当然業界誌も前向きな記事を書くはずですよね。
消費者様向けの情報誌ではなく、印章業界向けの情報誌は業界の曲がった方向を如実に記事にしています。
開運印鑑が仮に昔からの伝統、または秘伝であるならば、業界誌がこんなカドが立つタイトルの記事を書くはず無いですよね。
「事件」 と銘打つほど深刻な問題だからこそ、あえて記事にしているのです。
ブログではタイトルしか紹介出来ませんが、当店にご来店いただければ実際の誌面をお見せできます。
(★恐縮ですが注文をご検討の方のみとさせていただきます。 不在が多いので必ず事前に時間帯の確認をお願い致します)
------------------追伸---------------------------

上の言葉は 「ハンコ屋は金が儲かればお客様はどうでもいい」 という事を如実に現した言葉ですよね。
一般の書店で販売する雑誌ではなく、印章業に従事する人しか見ない情報誌ならではの言葉です。
開運印鑑のデタラメを語るには、この1枚の資料(写真)だけでもいい位の言葉ですよね。
「我々の問題でありお客様には関係無い」・・・買うお客様のよりも、お金を儲ける自分達を優先した言葉ですね。
「ハンコには変わりない訳ですから」・・・押せれば何でもいいという事で、印相体を表現する最適の言葉です。
アンダーラインの前の言葉も大変重要です。
アンダーライン部分と併せると「いいハンコだろうが、悪いハンコだろうが、ハンコには変わりがない」という意味ですね。
お客様が聞いたら驚愕する話ですけど、ここで言う「悪いハンコ」とは、開運印鑑を指すのは今までの説明で
おわかりいただけるかと思います。
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しつこい様ですが、印相印 (開運印鑑) は言い伝えでも何でもなく、ハンコ屋がお金儲けするアイデアに過ぎないのです。
「虚構は罪悪ではない」 と書かれていますね。
虚構という言葉を調べますと 「事実ではないことを事実らしくつくり上げること」 となっております。
これ、まさに開運印鑑の事です。
「金というものは、取れる内に取る」・・・
仮にお客様が聞いたらびっくりする言葉ですね。
お客様がカモにされている事を実によく表現した業界誌です。 (素晴らしい業界紙ですね)
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昭和40年代の「従来の印章」とは、いわゆる古き良き代時のいいものが多かった時代の印鑑です。
それらを 「凶相印」 などと言って新しいハンコを売り付ける販売手法の事を指した記事ですね。
開運印鑑が登場しはじめた頃に用いられた手法ですが、今でもインターネットで検索すると出てきますね。
実は、これらは古典的な販売方法で、昭和50年~60年頃に印章業界関係者の努力(注意喚起など)により
今では凶という部分を隠し、「開運する」「幸せになる」などの言葉とともに、ホームページ上に店主が微笑んでいる写真を
載せたりして、なるべく負のイメージよりプラスのイメージをアピールする手法に変わりました。
>「負のイメージではなくプラスのイメージならいいのではないでしょうか?」
いえいえ、表向きの販売方法が変わっただけで、売られている印鑑は何一つ変わらない開運印鑑です。
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私が説明するよりアンダーラインを読んでいただく方がよくわかりますね。
印相など無かった説明です。(=言い伝えでも何でもない)
アンダーラインより右の「印判」の一文は開運印鑑のバイブルと呼ばれている印判秘訣集という花押の本についてです。
印判秘訣集は全く関係無い本である事を私は、既にお店のホームページ上で公開しております。
アンダーラインより左側は、その言葉の通り、江戸時代はあらゆる物に「相」が付けられていたという事の紹介です。
しかし、ハンコに「相」という観点は無かったのです。
その理由は、アンダーラインに書かれている通りです。
また、この業界誌には書かれておりませんが、「印相」とは仏像の両手の形を表す事であり、ハンコの文字とは
全く関係無い仏教用語で既に印相という言葉が存在していたので「印鑑の相」という意味での印相は無かったのです。
これも開運印鑑のデタラメを証明する資料ですね。
(今後も追伸として更新する予定です)
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印相印とは、開運印鑑の事です。
開運印鑑は歴史が無い最近のものである説明です。
金儲けの商材としていろいろなアイデアが考えだされたのです。
「動物由来の印材はダメなので印材は柘のみが開運する」 などは典型的な 「うちは他店とは違う」というアイデアです。
昔からの言い伝えではなく、ハンコ屋がハンコを1売る為に考えたアイデアに過ぎないのです。
1本でも多く売る為には、デタラメな由来を創作して書体も由緒正しき篆書体をいびつに変形して売ってしまうのです。
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ではいったい、開運印鑑(=印相体で彫られた印鑑)はいつ頃から出来たのか。
写真の資料は今から約30年位前です。
今から約30年位前の資料に「20年位前にできた」と書かれております。
という事は、合計で今から約50年前=昭和40年頃です。
印相体は歴史の無い書体である事がこの資料からでもわかります。
「開運」を謳って印鑑を販売する商法は戦前の書籍からとなりますが、印相という言葉が用いられたのは
昭和30年代初頭に出版された書籍からです。
それが売られるようになったのは、昭和40年(頃)以降です。
まさしく上の写真資料が忠実に語っております。
「歴史が浅くていけないの?」と思われる方もいらっしゃるかも知れません。
「歴史が浅い」という一点のみでしたら問題ありませんが、開運印鑑は昔からの秘伝であるかの如くの説明がされています。
また、「美しい書体」「素晴らしい書体」であるかの如くの宣伝もされております。
「書体の美」を語るには、一般消費者様には申し訳ない表現になりますが、書道や書体に精通していない素人さんと、
きちんとした識者の意見では異なる場合もあります。
「きちんとした識者」とは、印章技術競技会ではないでしょうか。 (会と者は異なりますが)
審査員もお店を経営している場合が多いですので、お店に行って聞く話では無く、審査結果という公になる
証拠で判断する事が望ましいです。
まわりくどい説明になりましたが、きちんとした印章技術競技会や展覧会では、印相体の作品が受賞する事は
絶対にありません。

業界誌の印相印問題(下)の見開き冒頭部分を紹介させていただきます。

まずは赤線部分より前をお読みいただきたいのですが、「印相家と自称する・・・」とありますね。
この表現自体、印相家を蔑視した表現である事がおわかりいただけるかと思います。
(デタラメを元に商売をしている人は、蔑視されて当然です)
そしてアンダーライン部分ですが、もうこれは今までの説明をお読みいただければご理解いただける事でしょう。
ここで言う「根拠や原理」とは、科学的根拠の事はもちろん、慣習や言い伝えも含んだ広い意味での根拠です。
古文書などに書かれた記録も無し。
「易占の応用」とありますが、そもそも印章文字の古くからの慣習を無視した方法でグネグネに曲げて
「開運する」などという言い伝えも出典もありません。
篆書体の原点とされる甲骨文字は、占いに使われた文字である事が研究で判明しております。
しかし、占いの易経と甲骨文字は全く関係なく、よって甲骨文字から古文、金文、やがて篆書体になる過程で
「占い」と言っても今の印相体とは全く関係ありません。
だって、印相体は篆書体の八方崩しを真似て創られ、商業的なセールストークとセットで開発された書体ですから・・・
次にこの資料を。
同じく10年位前の印章業界誌からです。

アンダーラインより前、冒頭に「印相というものが、意外な効果をもって市民の間に受け入れられたのは疑いもない事実」
とありますね。
これは、「売れた」イコール「開運になった」ではありませんよ。
印相体とセットで説明された「短い印鑑はいけない」 「上下のしるしはいけない」 「太枠はいけない」 「小判型はいけない」
など、これらのセールストーク+印相体の「印面一杯に文字を広げる」という作風が、販売員の巧みな話術によって
全国に広がったのは事実という意味です。
それは私から見ても紛れもない事実であり、だからこそこうして「変なもの」がこれ以上広まらないよう注意喚起を
しているのです。
ここで赤線部分を読んでみて下さい。
私が補足説明すると、よくわからなくなってしまうかもしれませんので、写真資料をよくお読みいただいた方が
よろしいかも知れません。
まあ、上から順番にここまで読んできて、賢明な人であれば、印相体の実態は既に十分わかっていると思います。
「印相体は毒の花」
名言ですね。
私が考えたのではなく、考えたのはこの業界誌の著書の方です。
さすがです
★今後も更新していきますが、長々書いても読むのが大変ですよね。
まあ、長い文章を読まなくても、途中まで読んでいただければ賢明な方は「印相体ってきちんとした書体じゃないんだな」
と気付くと思います。
「じゃ気付かない人は賢明じゃないの?」・・・
う~ん、それは賢明な方であれば答えはわかると思います。
天才、秀才である必要はありません。
一般常識、良識を持ち合わせた人がこのページの4分の1ぐらいをお読みいただければ開運印鑑やそのベースとなる
印相体を知る事ができます。
じゃ、吉相体は?
吉相体の説明は始めの頃にありますよ。
編集者 はんこの印善
陵墓印
今回は戦前の陵墓印を掲載してみようと思います。
陵墓とは御陵とも言われる皇室のお墓の事です。
陵墓印(御陵印)とは、参拝記念として陵墓監区事務所(または近隣の社寺)で押印できる印章の事です。
第一回として、初代天皇 神武天皇の陵墓印を

このブログで紹介している資料のほとんどはお店で保管しているものですが、この陵墓印影はお店や
自宅ではなく、別の場所で保管しております。
ブログを見ていただいている方には興味ない話かも知れませんが、古文書はまとまると古紙特有の
匂いがあるからです。
何故かうちには膨大な数の陵墓印(印影)があります。
もちろん陵墓そのものは限られた数ですが、同じ印影がいくつもあるので量としては膨大になります。
このまとまった量の古紙をお店や自宅で保管するにはちょっと困ってしまいますので、陵墓印影は
別の場所に保管しております。

冒頭に書きましたが、これは戦前の陵墓印です。
現在は全て新しい印章に代わっています。
畝傍山東北陵

これは実務印ではなく落款印的な部類になりますね。
実は、戦前の陵墓印を酷評する人達が居るようです。
確かに今の陵墓印は素晴らしいです。
しかし、かと言って私は戦前の陵墓印が悪いだなんて一遍も感じる事はありません。
大篆(柳葉篆)や畳篆など、今では使われない昔の書風が何とも言えずいい味わいを出しているからです。
(これ以降は手彫り印鑑とはほとんど関係ありません)
ちょっとドライブを兼ねて茨城まで行ってきました。

茨城県と言えば筑波山を思い浮かべる人も多いと思います。
新緑の季節ちょっと手前ですが風景は素晴らしいです。
筑波山周辺に住んでいる方には誤解を生じてしまうような説明ですが、一部だけ読んで誤解せず
文章全体でご理解いただきますようお願い致します。
偉そうに書いてしまいますが、インターネット全盛の時代にネットからの情報ではなく、高校時代の地理の
授業の記憶と私見を混ぜて書きますので、多少は間違いがあるかもしれませんが、筑波周辺について。
筑波山は古期造山帯である阿武隈山地の南端です。
古期造山帯ですので険しい山ではなく、周囲も含めなだらかな山地が広がっております。
標高もそれほど高くはありませんので、山頂付近の植生も東京周辺とほとんど変わりません。
岩場を縫って流れる有名な渓流もありません。
ですので、非日常を求めるには奥多摩などに出かけた方が満足感を得られるかも知れません。
でも、それはそれで田舎の情緒あふれる風景があるので私は好きです。
奥多摩を「ヤマメが釣れる渓流」に例えると、筑波は「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」という
感じです。
ヤマメは居ませんが、小鮒が釣れる川がごく当たり前にあります。
「茅葺き屋根の民家の横を小鮒が釣れる小川が流れている」という景色が東京からさほど遠くない距離で
気軽に見られる良さがあります。
そんな情景 私は大好きです。
偉そうな説明はこの位にして写真を
途中真壁に立ち寄りました。
素焼き埴輪の置き物でしょうか。
もちろん古いものではないでしょうけど思わず写真を撮ってしまいました。

真壁は古民家で有名ですが、私は行った事が無かったので是非寄ってみたかった所です。

今は使われていないようですが、昭和初期に建てられた郵便局です。

これはお寺ではなく個人のお宅です。
都心ではまず見られない豪華な造りですね。

下は酒蔵ですが、地震の影響が一年を過ぎた今でも大きく残っている姿に衝撃を受けました。
私は、昨年3月の大地震の1週間ほど後、山の中で大きな余震に遭いました。
3月11日は支店で仕事中でしたのでビルが揺れる大きな音にその時は恐怖を感じたのですが
車の音一つしない山の中で地震(余震)に遭遇した時は大きな地鳴りの後に揺れがきました。
不気味な音を放つ田舎の大地震も、それはそれで非常に恐ろしかったです。



味わいのある旅館です。

これは別の蔵ですが、何気ないところで唐草が用いられているところなど、つい見とれてしまいます。

写真でみると良さがあまり実感できないかも知れませんが、真壁には100棟以上の歴史的建造物が
国の登録文化財に指定されているそうです。

下は長屋門です。
長屋門自体は田舎に行けば結構見る事ができますよね。
真壁周辺でも巨大な長屋門の農家が沢山ありました。
しかし、真壁の魅力は城下町状の造りが残っているところだと思います。
四方を水田に囲まれた小さな街ですが、一歩真壁に入れば時代が少し戻ってしまったかのようです。

もちろん古民家ばかりではなく、新しい住宅も沢山あり新旧混合の生活がある訳ですが
江戸や明治の面影だけでなく、昭和育ちの私にはこういう看板やポストも懐かしい気持ちがします。
今でいうところの「ポップ調フォント」とでもいいましょうか。

私の小さい頃はよくこのようなお店がありました。
自転車を見ればおわかりいただけると思いますが、子供達でお店が賑わっていました。
不思議と安心する懐かしい雰囲気です。

この写真だけではよくわからないかも知れませんが、現在も営業中の二輪車販売店です。↓

よく行く場所の近くにこん盛りとした丘があります。
陵墓と掛けた訳ではありませんが、私は「あの盛り上がり方は自然ではできない」
「きっと古墳に違いない」と家族に言ってみたところ、「また変なこと言い出した」とでも言いたそうな
冷めた目で見られていましたが、ネットで調べてみたら本当に古墳だという事がわかりました。

個人の方が趣味的に作ったサイトに書いてあった事ですので、真偽の程は定かではありませんが
そのサイトの情報源は県の資料だそうで、私は古墳だと確信してます。

どうです? 古墳に見えませんか?
ちなみに、そのホームページによりますと、下の写真・お墓の後方にある盛り上がりも古墳だろう
との事です。
二つ上の写真はその「推定」古墳の上に登って撮ってしまったのですが、お地蔵さんも(上に)ある事ですし
地元の人は普通に乗っているので、古墳だとしても許してもらいましょう。

陵墓とは御陵とも言われる皇室のお墓の事です。
陵墓印(御陵印)とは、参拝記念として陵墓監区事務所(または近隣の社寺)で押印できる印章の事です。
第一回として、初代天皇 神武天皇の陵墓印を

このブログで紹介している資料のほとんどはお店で保管しているものですが、この陵墓印影はお店や
自宅ではなく、別の場所で保管しております。
ブログを見ていただいている方には興味ない話かも知れませんが、古文書はまとまると古紙特有の
匂いがあるからです。
何故かうちには膨大な数の陵墓印(印影)があります。
もちろん陵墓そのものは限られた数ですが、同じ印影がいくつもあるので量としては膨大になります。
このまとまった量の古紙をお店や自宅で保管するにはちょっと困ってしまいますので、陵墓印影は
別の場所に保管しております。

冒頭に書きましたが、これは戦前の陵墓印です。
現在は全て新しい印章に代わっています。
畝傍山東北陵

これは実務印ではなく落款印的な部類になりますね。
実は、戦前の陵墓印を酷評する人達が居るようです。
確かに今の陵墓印は素晴らしいです。
しかし、かと言って私は戦前の陵墓印が悪いだなんて一遍も感じる事はありません。
大篆(柳葉篆)や畳篆など、今では使われない昔の書風が何とも言えずいい味わいを出しているからです。
(これ以降は手彫り印鑑とはほとんど関係ありません)
ちょっとドライブを兼ねて茨城まで行ってきました。

茨城県と言えば筑波山を思い浮かべる人も多いと思います。
新緑の季節ちょっと手前ですが風景は素晴らしいです。
筑波山周辺に住んでいる方には誤解を生じてしまうような説明ですが、一部だけ読んで誤解せず
文章全体でご理解いただきますようお願い致します。
偉そうに書いてしまいますが、インターネット全盛の時代にネットからの情報ではなく、高校時代の地理の
授業の記憶と私見を混ぜて書きますので、多少は間違いがあるかもしれませんが、筑波周辺について。
筑波山は古期造山帯である阿武隈山地の南端です。
古期造山帯ですので険しい山ではなく、周囲も含めなだらかな山地が広がっております。
標高もそれほど高くはありませんので、山頂付近の植生も東京周辺とほとんど変わりません。
岩場を縫って流れる有名な渓流もありません。
ですので、非日常を求めるには奥多摩などに出かけた方が満足感を得られるかも知れません。
でも、それはそれで田舎の情緒あふれる風景があるので私は好きです。
奥多摩を「ヤマメが釣れる渓流」に例えると、筑波は「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」という
感じです。
ヤマメは居ませんが、小鮒が釣れる川がごく当たり前にあります。
「茅葺き屋根の民家の横を小鮒が釣れる小川が流れている」という景色が東京からさほど遠くない距離で
気軽に見られる良さがあります。
そんな情景 私は大好きです。
偉そうな説明はこの位にして写真を
途中真壁に立ち寄りました。
素焼き埴輪の置き物でしょうか。
もちろん古いものではないでしょうけど思わず写真を撮ってしまいました。

真壁は古民家で有名ですが、私は行った事が無かったので是非寄ってみたかった所です。

今は使われていないようですが、昭和初期に建てられた郵便局です。

これはお寺ではなく個人のお宅です。
都心ではまず見られない豪華な造りですね。

下は酒蔵ですが、地震の影響が一年を過ぎた今でも大きく残っている姿に衝撃を受けました。
私は、昨年3月の大地震の1週間ほど後、山の中で大きな余震に遭いました。
3月11日は支店で仕事中でしたのでビルが揺れる大きな音にその時は恐怖を感じたのですが
車の音一つしない山の中で地震(余震)に遭遇した時は大きな地鳴りの後に揺れがきました。
不気味な音を放つ田舎の大地震も、それはそれで非常に恐ろしかったです。



味わいのある旅館です。

これは別の蔵ですが、何気ないところで唐草が用いられているところなど、つい見とれてしまいます。

写真でみると良さがあまり実感できないかも知れませんが、真壁には100棟以上の歴史的建造物が
国の登録文化財に指定されているそうです。

下は長屋門です。
長屋門自体は田舎に行けば結構見る事ができますよね。
真壁周辺でも巨大な長屋門の農家が沢山ありました。
しかし、真壁の魅力は城下町状の造りが残っているところだと思います。
四方を水田に囲まれた小さな街ですが、一歩真壁に入れば時代が少し戻ってしまったかのようです。

もちろん古民家ばかりではなく、新しい住宅も沢山あり新旧混合の生活がある訳ですが
江戸や明治の面影だけでなく、昭和育ちの私にはこういう看板やポストも懐かしい気持ちがします。
今でいうところの「ポップ調フォント」とでもいいましょうか。

私の小さい頃はよくこのようなお店がありました。
自転車を見ればおわかりいただけると思いますが、子供達でお店が賑わっていました。
不思議と安心する懐かしい雰囲気です。

この写真だけではよくわからないかも知れませんが、現在も営業中の二輪車販売店です。↓

よく行く場所の近くにこん盛りとした丘があります。
陵墓と掛けた訳ではありませんが、私は「あの盛り上がり方は自然ではできない」
「きっと古墳に違いない」と家族に言ってみたところ、「また変なこと言い出した」とでも言いたそうな
冷めた目で見られていましたが、ネットで調べてみたら本当に古墳だという事がわかりました。

個人の方が趣味的に作ったサイトに書いてあった事ですので、真偽の程は定かではありませんが
そのサイトの情報源は県の資料だそうで、私は古墳だと確信してます。

どうです? 古墳に見えませんか?
ちなみに、そのホームページによりますと、下の写真・お墓の後方にある盛り上がりも古墳だろう
との事です。
二つ上の写真はその「推定」古墳の上に登って撮ってしまったのですが、お地蔵さんも(上に)ある事ですし
地元の人は普通に乗っているので、古墳だとしても許してもらいましょう。

手彫りゴム印
今回は大正時代の手彫りゴム印の印譜より

今回はゴム印ですが、印鑑は文字が重要である事はいうまでもありませんよね。
もちろん手彫りゴム印も同様です。
手彫りゴム印の場合は、印鑑と違ってゴムの板に逆さ文字を直接書いたりはしません。
ガンピという薄い紙に字割りをし、正字(普通の字)を一筆書きで書きます。
一方、朱肉を付けて押す印鑑は印面に逆さ文字を書く「字入れ」の際、多少は修正をしながら
文字を完成させます。
どちらも字(書)に心得がなくては出来ませんが、木口印鑑(朱肉を付けるハンコ)は、何回も修正
して文字を完成できるのに対し、手彫りゴム印は一筆書きでここまで上手に書けなければなりません。
ロゴマークや太い文字などはもちろん修正しながら書く場合もありますが、木口印章のように墨(黒)
で書いた文字を朱墨で消して修正するようにはできないので、より書が達筆でなければなりません。
くどい(?)説明はこの辺にして印影を
薄くなってしまっているのが残念ですが、草書体が美しい手彫りゴム印です。

こちらは創作文字風です。
今でいうところの「ポップ調フォント」のような感じです。

かわってこちらは素晴らしい行書体です。


理髪器具の会社のようですね。

最後は素晴らしい楷書体の手彫りゴム印ですが、住所と取り扱い品目を見てハッと思いました。

茨城県の真壁で「土器素焼き一切」と書いております。
陵墓印について書いた前の記事に一旦戻ってみていただけますでしょうか。
真壁に行った時に土器や埴輪のようなものが沢山ありました。
気になって調べてみたところ、ゴム印の名とは違うお店のようですが、おそらくこの辺りで
素焼きが盛んだったのでしょう。

ゴム印が作られた大正時代で既に四代目(印影より)
当時の素焼きを是非見てみたいです。
個人情報云々という大切な事もありますが、昔の素晴らしいものを眠らせておかず次世代へ伝える
とご理解いただければ幸いです。
昔の印影にいろいろな思いを馳せてみるのもいいと思います。
今回は少しだけ宣伝させていただきます。
古き良き時代の手彫り印鑑・手彫りゴム印は、はんこの印善へ

今回はゴム印ですが、印鑑は文字が重要である事はいうまでもありませんよね。
もちろん手彫りゴム印も同様です。
手彫りゴム印の場合は、印鑑と違ってゴムの板に逆さ文字を直接書いたりはしません。
ガンピという薄い紙に字割りをし、正字(普通の字)を一筆書きで書きます。
一方、朱肉を付けて押す印鑑は印面に逆さ文字を書く「字入れ」の際、多少は修正をしながら
文字を完成させます。
どちらも字(書)に心得がなくては出来ませんが、木口印鑑(朱肉を付けるハンコ)は、何回も修正
して文字を完成できるのに対し、手彫りゴム印は一筆書きでここまで上手に書けなければなりません。
ロゴマークや太い文字などはもちろん修正しながら書く場合もありますが、木口印章のように墨(黒)
で書いた文字を朱墨で消して修正するようにはできないので、より書が達筆でなければなりません。
くどい(?)説明はこの辺にして印影を
薄くなってしまっているのが残念ですが、草書体が美しい手彫りゴム印です。

こちらは創作文字風です。
今でいうところの「ポップ調フォント」のような感じです。

かわってこちらは素晴らしい行書体です。


理髪器具の会社のようですね。

最後は素晴らしい楷書体の手彫りゴム印ですが、住所と取り扱い品目を見てハッと思いました。

茨城県の真壁で「土器素焼き一切」と書いております。
陵墓印について書いた前の記事に一旦戻ってみていただけますでしょうか。
真壁に行った時に土器や埴輪のようなものが沢山ありました。
気になって調べてみたところ、ゴム印の名とは違うお店のようですが、おそらくこの辺りで
素焼きが盛んだったのでしょう。

ゴム印が作られた大正時代で既に四代目(印影より)
当時の素焼きを是非見てみたいです。
個人情報云々という大切な事もありますが、昔の素晴らしいものを眠らせておかず次世代へ伝える
とご理解いただければ幸いです。
昔の印影にいろいろな思いを馳せてみるのもいいと思います。
今回は少しだけ宣伝させていただきます。
古き良き時代の手彫り印鑑・手彫りゴム印は、はんこの印善へ
佛法僧寶
明治時代の印影資料より

佛法僧寶の九畳篆の御朱印です。

今では九畳篆はごく一部のハンコ屋さん以外は復刻印でしかお目にかかれないです。
ごく一部のハンコ屋さんとは?
・・・
すみません ちょっと宣伝です。
九畳篆もはんこの印善

佛法僧寶の九畳篆の御朱印です。

今では九畳篆はごく一部のハンコ屋さん以外は復刻印でしかお目にかかれないです。
ごく一部のハンコ屋さんとは?
・・・
すみません ちょっと宣伝です。
九畳篆もはんこの印善
公印
五人組帳
江戸時代の五人組御仕置帳です。
五人組連判帳の一冊より。

嘉永二年の五人組帳です。
現在、個人の印鑑登録は本人の姓名とは無関係な印文では登録できません。
無関係とは例えば、鈴木さんという人が伊藤というハンコで印鑑登録できないという事です。
「当たり前じゃないか」と思う方も居らっしゃるかと思いますが、印鑑というのは実務的には確固たる本人の
証明となるべきものですので、間違いなく本人の物であれば、例え鈴木さんが伊藤という印鑑を
「本人の証(あかし)」として使用していても問題ないはずです。
指紋やDNA鑑定で本人の特定が可能であっても、指紋に名前は書いてありませんので、それと一緒
と考えればいい訳です。
「何てバカバカしい屁理屈なんだ」と一蹴なさらずに、これは八方崩しの意味を説明する上で重要ですので
頭の片隅にでも入れておいて下さい。
八方崩しの事については後日として今回の印影は五人組帳から

組頭:武兵衛さんの印影が何故かありません。
上段右から 組頭「武兵衛(印無し)」 「市三郎」 「彦七」 「源次郎」 「定七」

下段右から 組頭「久次郎」 「孫七」 「忠兵衛」 「恒吉」 「虎吉」

日本の印鑑は中国から伝来したものですが、その後藩札文化を経て明治時代に頂点を迎えます。
実際藩札に係わった印判師はごく僅かです。
本来、藩札の作成方法は偽造防止の為秘密とされてきたので、藩札彫刻師が片手間に印鑑を彫っていたの
ではないのですが、同化していた部分はかなりの範囲である事がわかってきています。
それでも数は少ないものでした。
明治時代に頂点を極めた極上の手彫り印鑑は、藩札が廃止され印判師に転じた人や、逆に印判師が
藩札彫刻師に師事した事で、印章文化が発達してきたのです。
話は大幅に逸れましたが、印章文化が完成する前の貴重な江戸時代の庶民の印影です。
藩札の話をしたのは、藩札とは反対に庶民の印鑑は雑に彫られたものが多かった事の説明です。

当時は「待ち彫り」といって、店頭で待っている間に彫ってくれる場合も多かったそうです。
(待ち彫りを今でもやっているお店はあります)
店頭で待っている間に彫ってくれるという事は、お客様側からみれば有り難い事なのでしょうけど
文字は必然的に雑になります。
これが三文判の元祖となります。
話は戻りますが、この当時は印鑑に彫ってある文字と本人が全く違うという事が多々ありました。
それこそ、「印鑑は伊藤と彫ってあっても、これは間違いなくわたくし鈴木のハンコだ」という事です。
五人組御仕置帳(連判状)を見ればよくわかります。
最後は暗く写ってしまったので申し訳ございませんが、紙質も興味深いのでアップにしてみました。
よく見ると和紙にいろいろな物が混ざっています。
写真ではよくわからないかも知れませんが、実物を見ると後から付着したものではなく、紙の繊維に
混ざっているのが見てとれます。
(中央やや右上の茶色いものは肉眼では葉っぱに見えます)

何気ない和紙の紙質からも悠久の歴史を感じる事ができます。
ちょっと大げさでしょうか・・
五人組連判帳の一冊より。

嘉永二年の五人組帳です。
現在、個人の印鑑登録は本人の姓名とは無関係な印文では登録できません。
無関係とは例えば、鈴木さんという人が伊藤というハンコで印鑑登録できないという事です。
「当たり前じゃないか」と思う方も居らっしゃるかと思いますが、印鑑というのは実務的には確固たる本人の
証明となるべきものですので、間違いなく本人の物であれば、例え鈴木さんが伊藤という印鑑を
「本人の証(あかし)」として使用していても問題ないはずです。
指紋やDNA鑑定で本人の特定が可能であっても、指紋に名前は書いてありませんので、それと一緒
と考えればいい訳です。
「何てバカバカしい屁理屈なんだ」と一蹴なさらずに、これは八方崩しの意味を説明する上で重要ですので
頭の片隅にでも入れておいて下さい。
八方崩しの事については後日として今回の印影は五人組帳から

組頭:武兵衛さんの印影が何故かありません。
上段右から 組頭「武兵衛(印無し)」 「市三郎」 「彦七」 「源次郎」 「定七」

下段右から 組頭「久次郎」 「孫七」 「忠兵衛」 「恒吉」 「虎吉」

日本の印鑑は中国から伝来したものですが、その後藩札文化を経て明治時代に頂点を迎えます。
実際藩札に係わった印判師はごく僅かです。
本来、藩札の作成方法は偽造防止の為秘密とされてきたので、藩札彫刻師が片手間に印鑑を彫っていたの
ではないのですが、同化していた部分はかなりの範囲である事がわかってきています。
それでも数は少ないものでした。
明治時代に頂点を極めた極上の手彫り印鑑は、藩札が廃止され印判師に転じた人や、逆に印判師が
藩札彫刻師に師事した事で、印章文化が発達してきたのです。
話は大幅に逸れましたが、印章文化が完成する前の貴重な江戸時代の庶民の印影です。
藩札の話をしたのは、藩札とは反対に庶民の印鑑は雑に彫られたものが多かった事の説明です。

当時は「待ち彫り」といって、店頭で待っている間に彫ってくれる場合も多かったそうです。
(待ち彫りを今でもやっているお店はあります)
店頭で待っている間に彫ってくれるという事は、お客様側からみれば有り難い事なのでしょうけど
文字は必然的に雑になります。
これが三文判の元祖となります。
話は戻りますが、この当時は印鑑に彫ってある文字と本人が全く違うという事が多々ありました。
それこそ、「印鑑は伊藤と彫ってあっても、これは間違いなくわたくし鈴木のハンコだ」という事です。
五人組御仕置帳(連判状)を見ればよくわかります。
最後は暗く写ってしまったので申し訳ございませんが、紙質も興味深いのでアップにしてみました。
よく見ると和紙にいろいろな物が混ざっています。
写真ではよくわからないかも知れませんが、実物を見ると後から付着したものではなく、紙の繊維に
混ざっているのが見てとれます。
(中央やや右上の茶色いものは肉眼では葉っぱに見えます)

何気ない和紙の紙質からも悠久の歴史を感じる事ができます。
ちょっと大げさでしょうか・・
明治情緒
内閣総理大臣之印
手彫りゴム印 競技会受賞作(1)
今から80年以上前、昭和5年の印章技術競技会の受賞作品から
手彫りゴム印編

左側をピックアップ

楽譜です。

これはもちろん手書きした判下をゴムに転写し手彫りしたものです。
細かいところまできちんと彫られている事も感心ですが、競技会に楽譜のゴム印を出品するという
洒落たアイデアにも感心させられます。
定規の目盛りと線の太さを比べてみて下さい。

右ページも忘れてはいけません。
職人には手先の技術だけでなく、絵心も必要でした。

つい楽譜の斬新さに目を奪われてしまいがちですが、少年が持つ網のボカシ具合にも注目して下さい。
(すみません 網の一部しかアップされていません)
この絶妙なボカシは手彫りゴム印では非常に難易度が高い作業なのです。

手彫りゴム印編

左側をピックアップ

楽譜です。

これはもちろん手書きした判下をゴムに転写し手彫りしたものです。
細かいところまできちんと彫られている事も感心ですが、競技会に楽譜のゴム印を出品するという
洒落たアイデアにも感心させられます。
定規の目盛りと線の太さを比べてみて下さい。

右ページも忘れてはいけません。
職人には手先の技術だけでなく、絵心も必要でした。

つい楽譜の斬新さに目を奪われてしまいがちですが、少年が持つ網のボカシ具合にも注目して下さい。
(すみません 網の一部しかアップされていません)
この絶妙なボカシは手彫りゴム印では非常に難易度が高い作業なのです。

手彫りゴム印:競技会受賞作(2)
明治印譜
戦前の陵墓印(2)
明治時代の連判状
明治時代の実務印 印譜より
個人の印を続けます。
明治時代の実務印 印譜より。

久しぶりに朱白混合です。 (朱白文相間印)
よくある曲線型ではなく直線で分けられて中央に稲妻型のワンポイントがあるタイプですが
このタイプも結構多くありました。

昔の女性のお名前はひらがなが多かったですね。
ご存知ひらがなは日本特有の文字です。
篆書体が出来た頃(小篆を中心に考え「秦」の時代とします)は当然ひらがなはありませんでした。
篆書体は中国で生まれた書体ですし、ひらがなは中国の文字ではありませんので当然ですね。
今は印章業協会が作成した「印章字林」によりひらがな、カタカナの篆書体で彫られていますが
これらは篆書体「風」のひらがなカタカナです。
前置きが長くなりましたが、では印章字林が出来る前はひらがなカタカナの実印はどうだったのでしょうか。

篆書体風のひらがな、カタカナで彫ったという事はまずありません。
楷書体が一般的でした。
中には、苗字などの漢字部分だけ篆書体で、ひらがなやカタカナのみ楷書体という書体混合も
多くありました。

太枠細字と太細二重枠(親子枠)の印影です。
いかにもこの時代という感じの印篆です。
最後は6分の太枠細字です。
6分=18ミリの個人の実印はこの時代は少ないです。

個人の印鑑の大きさについて 後ほど追伸として文を追加させていただく予定です。
・・・「後ほど」という宿題が多い気がしますが、印鑑のサイズについてはお店に問い合わせが
多い事ですので、ちょうどいい機会ではないかと思い、サイズについては後ほど追伸というかたちで
明治時代の実務印 印譜より。

久しぶりに朱白混合です。 (朱白文相間印)
よくある曲線型ではなく直線で分けられて中央に稲妻型のワンポイントがあるタイプですが
このタイプも結構多くありました。

昔の女性のお名前はひらがなが多かったですね。
ご存知ひらがなは日本特有の文字です。
篆書体が出来た頃(小篆を中心に考え「秦」の時代とします)は当然ひらがなはありませんでした。
篆書体は中国で生まれた書体ですし、ひらがなは中国の文字ではありませんので当然ですね。
今は印章業協会が作成した「印章字林」によりひらがな、カタカナの篆書体で彫られていますが
これらは篆書体「風」のひらがなカタカナです。
前置きが長くなりましたが、では印章字林が出来る前はひらがなカタカナの実印はどうだったのでしょうか。

篆書体風のひらがな、カタカナで彫ったという事はまずありません。
楷書体が一般的でした。
中には、苗字などの漢字部分だけ篆書体で、ひらがなやカタカナのみ楷書体という書体混合も
多くありました。

太枠細字と太細二重枠(親子枠)の印影です。
いかにもこの時代という感じの印篆です。
最後は6分の太枠細字です。
6分=18ミリの個人の実印はこの時代は少ないです。

個人の印鑑の大きさについて 後ほど追伸として文を追加させていただく予定です。
・・・「後ほど」という宿題が多い気がしますが、印鑑のサイズについてはお店に問い合わせが
多い事ですので、ちょうどいい機会ではないかと思い、サイズについては後ほど追伸というかたちで
明治時代の印篆
雷紋
角印
石川県にある警察署の公印です。
警察署の公印をインターネットで公開してしまってはいけないかも知れませんが
石川県の「県」が「縣」となっておりますので、今では使われていないでしょうから問題ないでしょう。
公印といっても警察署や消防署の角印は表彰状などで結構目にする機会が多いですから
仮に現在使用しているものを公開しても問題はないと思いますが。

津幡という地名は知りませんでしたが、インターネツトで調べると瞬時に場所がわかりますね。
(今では当たり前ですが)
関東育ちの私には土地勘が全くありませんが、地図で見ると散村で有名な砺波平野の山を隔てた西側のようです。
一度は高台から砺波の景色を見てみたいと思っていますが、実現できない事ではないものの、なかなか
行く機会がとれず残念です。
私は昔の印影に思いを馳せながら、その時代の情景を想像してみるのが好きです。
頭に浮かぶ情景と当時の風景とが合っているかどうかはわかりませんが、そんな事も古い印影を
見る楽しみの一つです。
警察署の角印とは全く関係はありませんが、同じ印譜に巴がありましたのでその印影も

女性の認印でしょうか。
認印とはいえ粋な工夫をこらした時代だったんですね。
警察署の公印をインターネットで公開してしまってはいけないかも知れませんが
石川県の「県」が「縣」となっておりますので、今では使われていないでしょうから問題ないでしょう。
公印といっても警察署や消防署の角印は表彰状などで結構目にする機会が多いですから
仮に現在使用しているものを公開しても問題はないと思いますが。

津幡という地名は知りませんでしたが、インターネツトで調べると瞬時に場所がわかりますね。
(今では当たり前ですが)
関東育ちの私には土地勘が全くありませんが、地図で見ると散村で有名な砺波平野の山を隔てた西側のようです。
一度は高台から砺波の景色を見てみたいと思っていますが、実現できない事ではないものの、なかなか
行く機会がとれず残念です。
私は昔の印影に思いを馳せながら、その時代の情景を想像してみるのが好きです。
頭に浮かぶ情景と当時の風景とが合っているかどうかはわかりませんが、そんな事も古い印影を
見る楽しみの一つです。
警察署の角印とは全く関係はありませんが、同じ印譜に巴がありましたのでその印影も

女性の認印でしょうか。
認印とはいえ粋な工夫をこらした時代だったんですね。
訂正印
役職印
小判型
印章業界紙
印章業界誌です。
発行の年月を確認し忘れてしまった為、詳しくは後日加筆予定です。
ただ、確実に戦前のものです。
それが広告からわかります。

印章店の職人募集広告です。
戦前の広告ですので問題ないとは思いますが、同業者さんですので社名がわかる部分だけは
画像を加工させていただきました。

手彫り印鑑(木口)と手彫りゴム印の職人さん募集の広告ですね。
朱肉を付けて押すタイプの木口職人が2名なのに対し、彫りゴム職人が3名というのが今とは時代が
違う事がわかりますね。
しかしそれより住所表記をよく見てびっくりしました。

当時は日本の占領下でしたが、今は中国の地名です。
「自書自刻印影見本送付の上照会の事」
「採用の上は旅費実費支給」
履歴書を送って面接に行き、採用されたあかつきには大連までの交通費を支払いますという事のようです。
今回印影はありませんので、他のページも
業界紙ですから、これは組合関係の報告部分の用ですが、「太る」とはもちろん肥満の事ではありませんよね。

上に紹介した職人さん募集広告以外でも沢山募集広告が出ておりましたのでそれと関係する記事を

中段左に(イ)(ロ)(ハ)(ニ)とありますが、(イ)を見てみて下さい。
「技工の争奪防止」とあります。
技術があれば争奪の対象となった時代だったんですね。
以前の記事にも書きましたが、腕一本で渡り合えたいい時代だったようで。
今回は他にこちらも

データ印(右)は今でもありますが、銅板印刷というのが情緒あっていいですね。

こちら(下)は手彫りゴム印の素材であるゴム板の広告です。
ゴムなら何でもいい訳ではありません。
同じゴム印でも鋳造用のゴム板は使えません。
先人が試行錯誤して明治初期に製法を創りだしたそうです。

手彫りゴム印の歴史については改めて書きたいと思いますが、最近「後日」とか「改めて」という宿題を
自分に課せながらやっていない気がして・・・
それはさておき、これは広告の下半分にある手彫りゴム印用ピンセットの宣伝です。
今でも手彫りゴム印は当時と全く同じ製法で作られています。
もちろん今でも同じ形のピンセットを使用します。
それにしても「(当時ニセモノ有り)ご注意」という部分はいいですね~

発行の年月を確認し忘れてしまった為、詳しくは後日加筆予定です。
ただ、確実に戦前のものです。
それが広告からわかります。

印章店の職人募集広告です。
戦前の広告ですので問題ないとは思いますが、同業者さんですので社名がわかる部分だけは
画像を加工させていただきました。

手彫り印鑑(木口)と手彫りゴム印の職人さん募集の広告ですね。
朱肉を付けて押すタイプの木口職人が2名なのに対し、彫りゴム職人が3名というのが今とは時代が
違う事がわかりますね。
しかしそれより住所表記をよく見てびっくりしました。

当時は日本の占領下でしたが、今は中国の地名です。
「自書自刻印影見本送付の上照会の事」
「採用の上は旅費実費支給」
履歴書を送って面接に行き、採用されたあかつきには大連までの交通費を支払いますという事のようです。
今回印影はありませんので、他のページも
業界紙ですから、これは組合関係の報告部分の用ですが、「太る」とはもちろん肥満の事ではありませんよね。

上に紹介した職人さん募集広告以外でも沢山募集広告が出ておりましたのでそれと関係する記事を

中段左に(イ)(ロ)(ハ)(ニ)とありますが、(イ)を見てみて下さい。
「技工の争奪防止」とあります。
技術があれば争奪の対象となった時代だったんですね。
以前の記事にも書きましたが、腕一本で渡り合えたいい時代だったようで。
今回は他にこちらも

データ印(右)は今でもありますが、銅板印刷というのが情緒あっていいですね。

こちら(下)は手彫りゴム印の素材であるゴム板の広告です。
ゴムなら何でもいい訳ではありません。
同じゴム印でも鋳造用のゴム板は使えません。
先人が試行錯誤して明治初期に製法を創りだしたそうです。

手彫りゴム印の歴史については改めて書きたいと思いますが、最近「後日」とか「改めて」という宿題を
自分に課せながらやっていない気がして・・・
それはさておき、これは広告の下半分にある手彫りゴム印用ピンセットの宣伝です。
今でも手彫りゴム印は当時と全く同じ製法で作られています。
もちろん今でも同じ形のピンセットを使用します。
それにしても「(当時ニセモノ有り)ご注意」という部分はいいですね~

手彫りゴム印
五人組帳
先日の記事(4月15日)で紹介した五人組帳の続編です。

「1日1印影の紹介」で気ままに更新していきたいのですが、さすがにこれを1印影ずつではご覧いただいて
いる方にはじれったいと思いますので、今回は向かって右側のページを紹介させていただきます。

今回も組頭の治右衛門さんの印影がありませんが、右から佐兵衛さん、新六さん、儀兵衛さん、次助さん。

角ばった印篆で左右の空間を充分にとった字配りの佐兵衛(右)さんのようなバランスが私は結構好きです。
それ以外は失礼ながら雑に彫られた印鑑のようです。
雑といっても江戸時代の庶民の貴重な印影ですので大切に保管していきたいと思います。

右から組頭 伝兵衛さん、栄蔵さん、利助さん、清次郎さん、善四郎さんですが、右(及び左端)の伝兵衛さんと
右から4番目の清次郎さんの印影に注目して下さい。
まず、伝兵衛さんの印影について
私が間違ってはいけませんので、基本的に印文を判読する事はしておりませんが、印影を見ると右側の文字
は「壽」です。
「伝兵衛」さんの中には壽という字が入っていませんよね。(※)
(江戸時代の庶民が苗字を名乗る事は出来なかったはずです)
これが前の記事に書いた例の「印鑑は伊藤と彫ってありますが、これはわたくし鈴木のハンコです」という
事です。
次に右から4番目(下段左から2番目)清次郎さんの印影です。
このタイプは以前(日にちは忘れてしまいました)の記事にも同様のタイプを紹介させていただきましたが
左右に唐草模様を入れるタイプで、江戸時代から昭和初期まで結構多くあったタイプです。
角ばった唐草ですが、今ではこのようなタイプは全くみませんね。
※について
江戸時代の庶民は全て苗字が無かったという事を書いているのではありません。
庶民でも立場によっては苗字帯刀が許されたという事もありますし、当店が所有している江戸時代の
実印登録記録(印鑑帳)にも苗字のある記録が多く残っております。
伝兵衛さんの印影の事は、印文と本人の名が一致していない場合が多かったという事のあくまでも例です。

「1日1印影の紹介」で気ままに更新していきたいのですが、さすがにこれを1印影ずつではご覧いただいて
いる方にはじれったいと思いますので、今回は向かって右側のページを紹介させていただきます。

今回も組頭の治右衛門さんの印影がありませんが、右から佐兵衛さん、新六さん、儀兵衛さん、次助さん。

角ばった印篆で左右の空間を充分にとった字配りの佐兵衛(右)さんのようなバランスが私は結構好きです。
それ以外は失礼ながら雑に彫られた印鑑のようです。
雑といっても江戸時代の庶民の貴重な印影ですので大切に保管していきたいと思います。

右から組頭 伝兵衛さん、栄蔵さん、利助さん、清次郎さん、善四郎さんですが、右(及び左端)の伝兵衛さんと
右から4番目の清次郎さんの印影に注目して下さい。
まず、伝兵衛さんの印影について
私が間違ってはいけませんので、基本的に印文を判読する事はしておりませんが、印影を見ると右側の文字
は「壽」です。
「伝兵衛」さんの中には壽という字が入っていませんよね。(※)
(江戸時代の庶民が苗字を名乗る事は出来なかったはずです)
これが前の記事に書いた例の「印鑑は伊藤と彫ってありますが、これはわたくし鈴木のハンコです」という
事です。
次に右から4番目(下段左から2番目)清次郎さんの印影です。
このタイプは以前(日にちは忘れてしまいました)の記事にも同様のタイプを紹介させていただきましたが
左右に唐草模様を入れるタイプで、江戸時代から昭和初期まで結構多くあったタイプです。
角ばった唐草ですが、今ではこのようなタイプは全くみませんね。
※について
江戸時代の庶民は全て苗字が無かったという事を書いているのではありません。
庶民でも立場によっては苗字帯刀が許されたという事もありますし、当店が所有している江戸時代の
実印登録記録(印鑑帳)にも苗字のある記録が多く残っております。
伝兵衛さんの印影の事は、印文と本人の名が一致していない場合が多かったという事のあくまでも例です。